HEAVEN@渋谷公会堂 1994.2.10 ライブレポート by 森内淳

数々の印象的なシーンを見せつける堂々としたステージ。
HEAVENの2ヶ月間に渡る"変化"の旅がスタートした。


2時間半にも及ぶハイテンションなステージを繰り広げたHEAVEN。自分勝手にライヴを展開するわけでもなく、観客と馴れ合いの中で進めるわけでもない。中村と塚本の斬新な演出。トゲのある歌詞と熱いロックが会場を包み込んだ渋谷公会堂の夜を、ライター森内淳氏がレポート!





 コンサートをわがままにすすめる。
 この言葉にはいろんな意味が含まれている。
 いちばん最悪なパターンが馴れ合いによるコンサートである。ハナっから客におんぶに抱っこで大学のサークルのようなノリで「わがままに」暴走するというパターンは僕はだいっきらいだ。たとえば、それはタモリと「笑っていいとも」の客とのあいだでとりおこなわれる出来合いの気持ちわるいやりとりに通じるものがある。ナーナーな空気のなかで発せられる「音」はもはやエンターテインメントではない。客とミュージシャンはどこかで拮抗していなければならない。
 逆に観客を一切無視してグイグイ引っ張るコンサートがある。これもどうかするとオーディエンスとのズレが生じてしまい、独りよがりなものになってしまう。ステージ上は熱いんだけど、客はしらけているというパターンは往々にしてある。まあ前者のよりはよっぽどマシなんだけどね
 ただ、勝手気ままにやりながら客をなんとなく引っ張るという芸当を身につければ、それはそれでなかなか面白かったりする。
 すなわちナーナーになりそうなところを上手くかわしつつ、わがままにグイグイグイと引っ張っていく。二月十日に渋谷公会堂でおこなわれたヘブンのコンサートはまさにそんな感じだった。
 とにかく女の子のファンが多かったのに僕は驚いた。ヘブンのやってる音楽はどちらかというと男のリスナーに受けるような内容である。ゴリゴリゴツゴツしたロックである。別にゴリゴリゴツゴツしたロックを女の子が聴いてはいけないといってるんじゃない。少なくとも会場の半分は男の子のお客さんで埋まるのかと思っていたら、見事にその予想が覆されたのでちょっとびっくりしてしまったのだ。しかも責色い声援が結構飛んだりしている。中村がたとえスキンヘッドにしようがカッツェのイメージって根強いんだなあ。
 もし、僕が中村や塚本だったら確実にいじける。「そんなんじゃないのによお」とかいって爆発しちゃうだろう。ところがステージ上の二人はちっともそういう素振りを見せない。そればかりではなくその手の声援を軽くあしらってみせたりしてる。何かもうそういう「頭にきた」とか「てやんでえ」とかいったレベルじゃ俺たちはやってないんだよ、といった感じなのである。
 コンサートは大半が曲を一曲やったら二十五秒くらいの間をおいて次の曲へいくといった感じで進められた。黄色い声援を無視して驀進するのでもなく、またその声援を受けて冗談のひとつでもいうのでもない。その妙な間に叫ぶだけ叫ばせておいてちょっとくだらないことをいって曲紹介をしてガツンとヘヴィな曲を決めていくというパターンがひたすら繰り返される。その観せ方というか駆け引きが僕にはひじょうに斬新なものに映った。
 たとえば、コンサートが始まる前まで僕のなかにはヘブンはもっともっと攻撃的なコンサートをやるべきだ、という思いがしつこく残っていた。先月、「コンサートでは(セッション・メンバーを含めた)七人のグルーヴを大事にしたいんだ」といわれたとしても、僕のなかにはレコードのなかのヘブンに対する思い入れがかなり大きな顔をして居すわっていた。というのも、以前、僕が日比谷野音で観たヘブンのステージは中村も塚本もかなり気持ち良かったと見えて最後にはやたらなごんじゃって、なんだかエアコンがばっちりきいた快適な部屋に寝ころがってコンサートを観ているような感じになってしまった。トゲのあるヘブンの歌詞もゴリゴリの音も耳に届く頃には丸く削られていたような印象を受けてしまった。僕が先月号で「もっと過激なコンサートをやってください!」と中村に直訴したのもその体験が随分モノをいっている。それでなくとも「ヘブンの曲は詞が先にできるから、歌詞が大きな顔をしている」とかいって彼は頭を抱えていた。だったら少なくともその「大きな顔をしている詞」の雰囲気くらいは届かねばおかしいじゃないか。
 ところが。今回のコンサートはあのときのコンサートとは全然、感触が違った。僕が望むほどの過激さは持ち合わせてなかったものの、 一曲一曲の重みは充分に感じたし、なんといっても歌詞がちゃんと届いていたところが良かった。「おい、ちゃんと背筋伸ばして聴けよ」といった声でも聞こえてきそうだった。
 コンサートの内容をもうちょっと詳しくかくと次のようになる。まずオープニングにSEが流れて七人が登場。挑発的な『セカンド・ライン』で始まったかと思うと、次はアコースティック・ギターをフィーチャーした『光のコンパス』。三曲めは塚本がヴォーカルをとる『鉛色の空を抜けて』とステージ上の模様は次から次へと変わっていった。……といった具合だ。ただでさえ彼らの曲は一曲一曲の性格がひじょうに異なる。統一感を無視したところがヘブンの良さでもある。こうやってぶつ切りにされた一曲一曲をまるでいろんな球種を一球ごとに変えて全力投球してくるピッチャーのように投げ込まれるとこちらとしてもこないだのようにボーッと観てられない。
 それが例の二十五秒くらいの間で客を油断させといて曲でバッサリ伐るというような斬新な演出とあいまって、かなり効果をあげていた。責色い声をあげていた女の子たちも曲をやっているときには一心不乱に聴き入っていたのがいい証拠だ。こういう気持ちのいいわがままは大歓迎である。
 ただひとつだけ気になるところがあった。それはグルーヴ感という点についてだ。
 たしかにヘブン+セッション・メンバーの七人は日比谷野音よりもはるかにいいグルーヴを出していたと思う。中村と塚本が思い描いていた「ヘブンの理想のコンサート」をやれたという手応えがあったかもしれない。二回めのアンコールが終わってひじょうに満足げに帰っていく二人の姿はやたらと印象的だった。
 しかし、その七人のグルーヴがあまりにも決まりすぎるというところが、逆に僕なんかは面白みに欠けてしまった。なんだか字面だけを見ると矛盾しているように思えるが、たとえば、三回転ジャンプも決めて平均点以上なんだけど面白みに欠ける演技で乗り切っちゃったスケート選手を観ているような感じがしたのだ。レコードで生じた熱があまりに上手くいきすぎたグルーヴによってスポイルされているような気がしてならなかった。ここにもう一発アクの強さがあると、全力投球のスライダーがさらにとてつもない角度で曲がりミットに収まるような、そんな域まで達するような気がするのだが。たとえば、その答えの一つは『終わるまで始まり』で塚本がギターをガシガシかき鳴らすときに生じるなんともいえぬ高揚感にあったと思う。また、そこから『綺麗』へ移るときの盛り上がりとかもそうである。
 そういった部分を「起点」(=最低ライン)として踏みだせばかなり違ってくると思うのだ。
 七人でやろうともやはりメインは中村と塚本なのである。グルーヴをつくりつつも終わってみたら五人が二人の前に脆いていたというようなものでないとレコードの「熱」は伝えられないのではないだろうか。
 中村はコンサートの終わりに「またここでやっていいですかあー」なんてことをいっていた。次に渋谷公会堂でコンサートをやるときには、野音から今回のコンサートへと変容した以上の『変わり方』を観たい。